昭和四十七年七月六日 朝の御理解


x御理解第六十四節
「此方は参って尋ねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路の所を参って来るが、信心して徳を受けて、身凌ぎをするようになれ。」


 今日は実際は次の六十五節とゆうところを頂いたんです。六十五節の御理解じゃなくて、この六十五節とゆうところ。これはどうゆう事かと思わせて頂いたんですけれども、六とゆう事は徳をゆう事。この徳にプラスするとゆう事。もうお徳とゆうのは限りなく頂いてゆかねばならん。もうこれだけの徳を頂いたから、これでよいとゆう事ではない。徳とゆうのは、もう限りなく頂いていくもの。五節とゆうのは丁度その中ば、徳を受けていく道すがら、とゆうような意味で六十五節とゆう事を、私は感じたんです。それで、そのお互いがお徳を受けていく信心して身に徳を受ける。だから勿論、その徳の中には霊徳神徳あります。それが、まあ霊徳神徳段々著しいものになって育っていき、おかげを受けてゆかねばなりません。信心して徳を受けて身凌ぎをするようになれと、身凌ぎの出来るようになるとゆう事は、もう既に徳を受けておる証拠です。
 昨夜壮年会で、まあ色々お話の中に、昨日私が菊栄会の面々の事をお願いさせてもらいよったら、会長であるところの正義さん、副会長であるところの文男先生、この人達の事をお願いさせて頂きよりましたらね、鯰の小さい、ひゆうたんごと言います。この辺で、まだ鯰と言わないのですよ、ひゆうたんごと言う、それでも髭を生やして、こうやっとる。ははあ、あの人達の信心が本当にひゆうたんごのごたる信心だと、こう思うた。髭とゆう事は、これは慢心。けれどもここにもありますように徳を受けておるとゆう事は事実だとゆう事。合楽でも身凌ぎの出来る人ちゃ、そうおられませんでしょうけれども、確かに、そこに生き方の中にです、成程信心の徳を身に受けておるなあと思う事があるのです。それでひとつも、そんなら毎日お参りしよる人達と実際の上に於いて遜色がない。いやむしろおかげを頂いとるとゆう感じのところがあります。それにはいつも身凌ぎが出来る信心ですから、まあ引いたら足してみる、足したら引いてみるといったような答えを日々出していっておるとゆう事だと思うのです。
 けれども私は、本当に惜しいなあ、あれだけ本当によいものを持っておって、ひゆうたんごで終わってはと、こう思いますもんですからね。もう後からいろいろ考えさせて頂いたら、ひゆうたんごの大きかつは、なまず。だから私の信心はなまずのようなもんだろうと思いました、髭を生やして・・・・。
 けれども、これは何時か佐田さんが頂かれたように、親先生はひょうたんなまずのような人だと頂かれた。つかみどころがない。確かにつかみどころがないと思うですねえ。皆さんが私をつかまえようとなさっても、なかなかそんなら、これが親先生だと言うて、まあそれぞれに皆さんの見方はありましょうけれども、本当のところは、つかみどころがない。そのつかみどころのないところが、えらい大きなようにも見えたり浅く見えたり小さく見えたりする事もございましょうけれども。
 昨夜、私、夕食の後から、お腹が痛みだしましてね、もうたまらんとゆう程ではないけれども、ちくちく痛んで壮年会に出て参りましたけれども、お話を聞きよるけれども、頭をかかえこんでから腹を押さえてから話を聞くとゆう程に悪かった。それでも、やはり喜代司さんの話に対する分からないところを質問的なお話でしたから、それに応えて一生懸命にお話しておりましたら、おかげでスキッとしましてね、もう時間で言うなら、やがて十二時とゆう頃でしたでしょう。お話をさせて頂いとりましたら、お腹がスッキリいたしてまいりました。だから冷たいものも頂かずに熱いお茶ばっかり頂いておるような状態でした。お腹がスッキリして参りましたら、喉が例によって乾きますから、私は西瓜をね、確かに冷やしてあった、もう皆、よかと言いますが、こちらは喉が乾いとるもんですから、頂きたい。西瓜を出しなさいと言うて、まあ結局皆さんは二切れしか頂かれんのに私は、二切れも三切れも頂くとゆうような事で、まあおかげでどうもなかった。そして休ませて頂いたら、又お腹が、こう一寸せき出すような感じなんです。
 そん時に私は非常に不安を感じましたです。本当に不安を感じました。それは、どうしてこのような不安が起こるのだろうかと、私は思いました。それから起きて、神選室に御神酒を頂きにきて、御神酒を頂いて御神前に額ずかせて頂いて、又休ませてもらった。そしたらそれっきり何と言うか、安心が出来ました。
 そしたら大きな熨斗を頂きましたが、まあ何時も神様に捧げてある命ではあるけれどもね、けれどもそこんところを思うたら安心が出来るはずなのに、まだせきもしよらん。せきはせんだろうかとゆう位に心に不安があると、もう兎に角御神酒を頂いたとゆう事で安心が出来た。それは何と言うか、御神酒の威力と言うか、御神酒を頂けばおかげを頂くとゆう普通の、私にしては一寸自分でも変わった信心だなあと思う位に、御神酒を頂いた途端に安心が出来たんですねぇ。もう御神酒を頂いて、せこうがせくまいが、それでそんなら死のうが生きろうがとゆう日頃の信心にかえったような気が致しました。
 私は今日の、お互い段々身に徳を受けて身凌ぎをするようになれと、身凌ぎが出来るようになったから、それでよいとゆう事じゃない。それは、もっともっと御神徳を受けて、言うならば自分が助かるだけじゃない、人をも助かる程しの徳を受けてゆきたい。そんなら文男さんでも正義さんでも、確かに徳を受けていきよりますけれども、身凌ぎが出来てはおりますけれども、それが人が助かる程しの徳ではないとゆう事。
 そんな事を思わせて頂いとりましたら、ひゆうたんごの大きいとは、なまず。結局なまずの子じゃからなまずが出来るのは当たり前。こっちが鯰じゃから、ひゆうたんごが出来るのは当たり前。けれどもこれも神様がね、必ず育てて下さると思いだした。そした頂く事がなまずをね、奈眞寿と頂いた。だからひゆうたんごですから、まあだようやく自分一人がやっとかっと身凌ぎが出来る。これでも、まあ私が、そげん心配せんでん段々大きゅうなって、鯰になるとゆう事じゃないだろうかと、まあ思わせて頂いたんですけれどもね。必ず眞を大きく示していけれる。奈とは大きく示すと書いてある。示してゆける信心に育つだろうと、こう思わせて頂いた。今、とやこう言うたり思う事ではないなと、ゆう風に思うたんですけれどもね。
 けれどもお徳を受けていくひとつの過程とゆうもの。その中に昨夜、私がお腹が痛むとゆう事から頂いたですね。御神酒を頂いたら安心が出来た。御神米を頂いたり御神米の御威徳も、又は御神酒を頂く事によっておかげを受ける事も十分私共は承知しとるし体験をしとる訳です。けれども御神酒を頂かなければ御神米を頂かなければおかげは頂けんなんてん言うような今迄の私の信心ではなかった。けれども御神酒を頂かなければならない。わざわざ寝ておって、大して痛みもせんけれども、ここ迄出て来なければおられなかったとゆうところにです、私は、その思いましたね。ははあ、いやしい事をした、後の不安があったとゆう事です。
 私は、これは大変大事なところだと思うのです。お互いが神乍らがのと、神様のお働きを神乍らに受けていきゃええ、所謂一切を神愛として受けていきゃいい、御事柄として頂いていきゃいい。成行を大事にしていくとゆう、その事が、もう眞の信心だと。成程そうなのだ。けれどもね、私共の言うならば、神様の気感に適わない。そんなら、その西瓜の場合もそうです。他の者は、もうよかですと、言いよる、もう十二時もあるのですから。しかも冷えたものを頂くとゆう事はあんまり体によくない。けれどもこちらが食べたい、こちらが喉が乾く。だからよかよか切って来なさい、切って来なさいと言うて、もうみんな持ってこらせてからがぶがぶ食べとる。そのいやしい心がね、私の心の中に不安を感じさせたんだとゆう事です。
 この辺の宗教心理と申しますかねえ、宗教させて頂く者の小さい神経がね、このように働かなければ必ずおかげ落とします。私共が場合は、それが非常に働きますから、おかげ落とさんですむんです。いけなかったところは詫びる事の信心にさぁっと切り替えていく。ですから神乍ら神乍らで受けていくような信心では、それは御事柄で受けていきさえすりゃよか、成り行きを大事にしていきさえすりゃよか。けれどもそこにです、例えばお腹がせいた、それが何でもない。で、お腹がせくのならまだしも、つい三十分前にがぶがぶいやしい心で、その西瓜を頂いたとゆう事が、私の心の中に、こんな事がどうして不安になるだろうかと思う位に不安があった。その不安になるところが素晴らしい。だからひゆうたんご位の時にはですね、その不安が生れてこない訳です。平気でおる訳です。だから段々そこのところに不安が感じられるようになったら、あれ程しの信心を頂いておるのですから。
 だから、これは喜代司さんにも言いました。あんたも、やっぱひゆうたんごの口じゃろうのと、成程身凌ぎが出来る、と言うて、そんなら本当に合楽的な信心を身につけていかないとゆう事はね、と言いましたけれども、結局は、そんなら神様がひゆうたんごですから、段々大きくならせて鯰にまで育てて下さる働きが何かの形であるだろう、けれども、まあだひゆうたんごの時には、例えば私が、昨夜不安を感じたような不安を感じきらない。御神酒さんを頂かしてもろうた途端に、それは御神酒さんの威力を知っておるからではなくて、御神酒さまを頂かしてもろうたら、もう安心が出来た。
 私はここのところを、昨日寝ながら非常に有難いと思うた。もう本当に安心が出来るとか、不安であるとゆうところのにきは、本当にもう紙一重なんですよね。そこに例えばお詫びをする気にならせて頂いた。嬉しい事も神乍ら、西瓜がぶがぶ食べたつも神乍ら、ひもじかったつじゃから、喉が乾いたから食べたつじゃからとゆうような信心では、私は余りもの信心だと思いますね。只、食べるべくして食べた。例えば夕食の時間になったから夕食を頂いたというならいいけれどもね、中途半端の時にいやしい心で頂いておってです、そして胃がせく腸が痛むとゆう時に、それを只神乍らで受けるだけはちょっとおかしい。本当に、あのいやしい心が神様の気感に適わなかったと、そこに御神酒でも頂かなければおられない心が起こった事が、私は信心には大事じゃなかろうか。所謂徳をより受けていく事の過程に於いてです、私は、そうゆうところが大事にされなければならないと、こう思う。
 今日の御理解に鮎の白焼き、鮎の塩焼きをしたやつを皿に見事に盛ってあるんですよ。それを頂いてどうゆう事だろうかと思うたら、軸にね、朝日のなんとかと書いてあったのですが、最後のところを栄とゆう字だったと思うのですけれどもねえ、頂いて。それから次に「至高のおかげ」と頂いた。素晴らしいことだと、私はそれを思うたんです。これは今、私が申しますように、本当に一切を神愛として受けていくとゆう受け方程素晴らしいおかげに繋がる信心はありません。これはどうでもこの事をですね、全教の人に、又はその事を知らない未信の人達に本当に教えてゆかなければいけないとゆう事です。 成り行きそのものを大事にするとゆう事。成り行きそのものが、天地の親神様のお働きだとゆう事。成程鮎の塩焼きは、もうそれこそ最高の味でしょうもんねぇ。やっぱり香といい味といい至高とゆう事。それは一生懸命拝んでから受けたとゆうおかげもありましょう。一生懸命修行して受けたとゆう、まあおかげの表れ方は様々でありますけれども、確かに成り行きを大事にさしてもらう。御事柄として受けていく。言うなら自然の成り行きそのもをです、合掌して受けていくとゆう信心、程、至高の愛というか、を悟らして頂いての、それなのですから、所謂至高のおかげが約束されるとゆう事になります。合楽で頂いておるおかげと言うのは、そうゆう言うなら、この位ですけれども、まあ言うなら私共の信心がひゆうたんごから、もっと鯰に変わっていく程しの大きな大鯰のおかげを頂くに違いはない。時にはです、これはいよいよ大変な、所謂おかげに育っていく事であろうなあと思うのでございます。皆さん、これはひとつ本当にそうなのですから、もう本当に成り行きを大事にしていくとゆ事。御事柄として受けていく信心。その成り行きそのものがです、神様があなたに求め給う修行であり、神様が求め給う信心だとうゆう事をです、もう合楽では繰り返し、この事を皆さんに聞いて頂いておる訳ですけれども、それが例えば至高の愛とか、至高のおかげとゆう事は今日初めて頂いた。それは鮎の白焼きの味わいにも似たようなものなのです。あの香といい味わいといい、もう至高の食物で、言うなら、もう至高の食物であろう。そうゆうおかげを頂いてゆく、この過程に於いてなのです。今日、私が皆さんに聞いて頂いた、所謂六十五節なんです。そうゆう素晴らしいおかげをもっともっと素晴らしいおかげに、そんならひゆうたんごが鯰に段々大きくなっていく。それこそ池の山には耳納のような頭の鯰がおる、とゆう話です。星野の池の山に、昔からそう言われておる。大きな鯰は地震を予知する。もう現代の科学では、どうにも分からないけれども、鯰は、それが非常に敏感、地震のある前に何か感じるらしい、感得する訳です。とゆうように大きな鯰のおかげをいよいよ頂いてゆかねばならん。成程身凌ぎが出来るとゆう事は、もう徳を受けておる証拠だけれども、それで腰掛けておったんでは、只自分だけは身凌ぎが出来るから有難いけれど、それが人が助かる程しの、言うならば徳を受けていくとゆう事。その徳を受けていく事の為にです、本気で神様のお働きをお働きとして、私共が受けていくとゆう事。そして受けて受けて受けぬかせて頂くとゆう事。そして、その過程においてです、私共生身を持っておる事ですから、神様の気感に適わん事の多い事は言うにさらの事。そこであんな卑しい心を起した事が、こんなにも不安だと、例えば心配になったり不安になったりしたらです、結局卑しい心に戻ってきて、そしてこれからは、こうゆう卑しい事は思いません、致しませんといったものが出来て、所謂御神酒さんを頂いて、初めて心に安らぎを、もう即座に、私が昨夜の場合感じさせて頂いたとゆう事がです、それは徳を受けていく過程にあるとゆう事。そうゆう信心をお互いが身に付けていかなければいけないとゆう事。
 ですから神乍らに御事柄で受けていきさえすりゃええとゆうのじゃあなくてです、その受けねばならない事がです、パッと自分に感じさせて頂いて、ああ、あんなお粗末な事が、あんな卑しい心が、こうゆう事に表れておるとするなら御事柄で受けます。受けますけれども不安であるでしょう、心配であるでしょう。そんなら、そこんところをです、やっぱひとつ後戻りしてからでもよいから、お詫びをさせて頂く謙虚な信心が、所謂六十五節。次の徳を受けていく事の為に、いよいよ大事な事であるとゆう事。此の方は参って尋ねる所が無かった。氏子はおかげを受けて遠路の所を参って来るが信心して徳を受けて身凌ぎをするようになれ。
 本当に合楽の方達はたいした事じゃあるなあと、朝の御祈念に皆さん、こうやって参って来る。そして一時の修行には、やっぱり皆さん福岡大分辺りから皆参って来とる。昨日お食事の時、高橋さんが、本当に大変ですなあと言いましたら、それが二辺迄位ならですねえ有難あぁく参って来る、福岡から合楽まで。ところが三辺になると、ちったおっくうになると言ってましたが、本当にその億劫になるところを修行と思うて、それが有難くならせて頂いて、言うなら信心にかかりきらせて頂く程の信心をね、頂けたらいよいよ素晴らしい徳に育っていく事だろうと思います。そして、そんなら参ってくる有難さとか楽しみとかとゆうのは、ここへ参って尋ねる所が無かったとおっしゃる、私共も或る意味ではそうだった。教典なんかは空暗記するように知っておるのですから、もうこれ以上に聞く事はなかった。又それ以上に教えてもらう所がなかった。ところがここの場合はです、二十年間この教典ひとつに取り組んでです、今日は、どげな御理解いただくじゃろうかと思う程しにいよいよ新たな、しかもいよいよ深いあらゆる角度から頂かして頂く。氏子はおかげを受けて遠路の所を参って来るけれども、そこに合楽には楽しみがあるから、おかげを受けるのだとゆう事でなかったら皆参って来ませんよね。けれどもいよいよ徳を受けていく為には、それこそ一にも押し二にも押し三にも押しでいく行き方から、私は徳を受けるとゆう事は、そうゆうところから生れてくる。
 昨日も壮年会で、ある方の話が出ました、本当にもうあの人は信心な一生懸命しよんなさいますけれども、もう本当に近所の評判が悪かと、それけん秋永先生ああたどう思いなさるのと、ある人が相談した。そしたら秋永先生が、そればってん、あの人達があれだけの信心しござっての事だから問題はなかがのと言うたとゆう意味の事をですね。だから過程に於いてはそうなんです、やはり。徳を受ける過程、所謂六十五節。それこそ神のヒレイだ。ほう、あの人はとてもよか信心しござるけんと誉められるばあっかりの信心じゃ絶対次の徳に飛躍していく事は出来ない。それけんち言うて、悪い事せろとか、ルーズになれとかゆう事じゃ決してないですけれども、一途に神様神様とゆう事になったら、今言うように朝参って昼参って、又夜も参るとゆう風になるから、やはりそれが悪口の対象になる訳なんです。
 けれども、そんなら身に徳を受けさせて頂いてのおかげになってくる時には、昨日の御理解じゃないですけれども、高橋さんの話じゃないけれども、本当に最近頂いておるおかげと言うのは、棚から牡丹餅のようなおかげだと、こう言う。いやいや決して棚から牡丹餅のおかげではない。それだけの事がちゃあんとなされておる日頃。所謂身に徳を受けてゆくところの信心修行のその過程に於いてです。だからこれを半分には、ちった不服であろうけれども、それは又のお徳を受ける為の言わば修行なのですから、それをひとつ有難うならせて頂くところ迄いく時に、次の又、徳の手がかりが出来てくるだろうと思うのです。
 今日は皆さんに、どうでも身凌ぎの出来る程の徳を受けて頂きたい。そして、もう身凌ぎが出来るから、もうこれでよいとかゆう事じゃなくて、もうお徳とゆうのは限りなく、それこそ死ぬ迄続けさせて頂けるのが、頂かなければならんのが、御神徳をいよいよ身に受けていくとゆう事なのです。しかも合楽の行き方はもう絶対のものだと、もう最高の所謂信心だと、一切を神様の神愛として受けるとゆう事。神愛として受けるとゆうところの信心。そこには鮎の白焼きのような味といい香といい、最高、至高の味わいのおかげがそこに約束される。そうゆう例えば一切を神愛として受けていく中にも、その途中にもです、只神愛神愛ではいけないとゆうところを、今日は聞いて頂いた訳ですね。ああゆう汚い心が、ああゆう卑しい事をした事が、私の心の中に不安でたまらなかった。本当に腹が又痛みゃせんだろうかぁといった感じだけだったんですけれども、それが不安でたまらなかった。そして三十分前に、さぁもうよかよか持って来んの持って来んのと言うてから西瓜を皆に食べさせて、自分もがぶがぶ頂いたとゆう事がです、三十分後に、そうゆう私の反省になって、御神酒を頂いた途端に私の心に安心が生れたと。そうゆう私は徳を受けていく、一切を神愛として受けていく過程にもそうゆう信心も又綿密に出来てこそ、次の本当の徳が受けられる手がかりが得られるんだとゆう事を、今日は聞いて頂きましたね、どうぞ。